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人生朝露

人生朝露

ボルヘスと荘子。

荘子です。
荘子です。

ホルヘ・ルイス・ ボルヘス(Jorge Luis Borges 1899~1986)。
今日はボルヘスと荘子について。ホルヘ・ルイス・ ボルヘス(Jorge Luis Borges 1899~1986)は、ノーベル文学賞こそ受賞しなかったものの、現在でも世界中にファンのいる作家です。彼の著作のテーマの一つである「夢」や「鏡」「混沌」といったキーワードに、荘子の思想が一致する箇所が多いんですが、ボルヘス自身も隠すことなく荘子からの影響を告白しております。

参照:Wikipedia ホルヘ・ルイス・ボルヘス
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%AB%E3%83%98%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%9C%E3%83%AB%E3%83%98%E3%82%B9

まずは『ボルヘス怪奇譚集』。
『ボルヘス怪奇譚集』ホルヘ・ルイス・ ボルヘス著。
≪荘子の夢
 荘子は蝶になった夢を見た。そして目がさめると、自分が蝶になった夢を見た人間なのか、人間になった夢を見た蝶なのか、わからなくなっていた。
             ハーバート・アレン・ジャイルズ『荘子』(一八八九)≫

≪女弟子
 美貌の西施が眉をしかめて、気むずかしい顔をした。醜女の百姓女がそれをみて、感嘆のあまり呆然となった。女はその美貌の婦人の真似をしたくなった。わざわざ念入りに不機嫌な気分になって、眉をしかめて渋面をつくった。それから女は街へと出かけていった。金持ちは逃げだし、邸に鍵をかけて閉じこもり、外へ顔を出さなかった。貧しい者たちは妻子とともに荷物をまとめ、遠い地へ逃げのびた。
             ハーバート・アレン・ジャイルズ『荘子』(一八八九)≫

ボルヘスは、それぞれ「胡蝶の夢(斉物論篇)」「西施の顰みに倣う(天運篇)」の故事を引いています。ハーバート・アレン・ジャイルズは、イギリスの中国文学の研究者で、発刊されたのが1889年とありますから、日本で言うと明治二十二年。日清戦争よりも古いころの『荘子』の英訳です。中国語→英語→スペイン語→日本語というルートを経ていますが、原形はとどめています。

参照:Wikipedia Herbert Giles
http://en.wikipedia.org/wiki/Herbert_Giles

・・・ボルヘスは「バベルの図書館」で『聊斎志異』や『紅楼夢』を西洋の読者達に紹介する場合でも、中国の古典から見られる「夢」のお話を集めています。もちろん、それらのルーツのである『荘子』の「胡蝶の夢」は、必須の要素として存在します。

『詩という仕事について』ホルヘ・ルイス・ ボルヘス著。
≪前回の講義で中国の哲学者、荘子の話を引用したかどうか、私には記憶がありません(私はこれまでにその文章を、しばしば、繰り返し引用し続けたものですから)。ともあれ彼は、自分が蝶になった夢を見たが、目覚めたときには、果たして自分が蝶である夢を見た人間なのか、それとも自分が人間であると夢を見ている蝶なのか分からなくなっていた。この隠喩はあらゆる隠喩のなかで、もっとも精妙なものだと私は思います。まず、第一に、それは夢で始まり、やがて目が覚めてからも、その生が依然として夢のごとく感じられているわけですから。そして第二に、ほとんど奇跡に近い幸運により、詩人はあの昆虫を選んでいるからです。もし「荘子は虎になった夢を見た」と言ったら、何の意味もないでしょう。蝶には繊細で、はかない印象がつきまといます。仮にわれわれが夢であるとするならば、それを示唆するまともな方法は、虎ではなくて蝶を使うことでしょう。もし荘子がタイピストになった夢を見たとしたら、まったくナンセンスでしょう。鯨ではどうか。これもやはり的はずれです。言いたいことにぴったりした言葉を荘子は選んだのだと、私は思います。(『詩という仕事について』「2 隠喩」より 鼓直訳 岩波文庫)≫

・・・文庫化されているこの講演は、『荘子』の「則陽篇」からの引用から始まり、シェイクスピアの『テンペスト』での有名なセリフ“We are such stuff.As dreams are made on, and our little life.Is rounded with a sleep.(われわれは夢と同じ材料で作られている。我々の儚い命は眠りと共に終わる。)”と「胡蝶の夢」との対比も見られます。

ボルヘスの『荘子』についての理解を示す最も顕著な例が、岩波文庫の『続審問』に収録されている「新時間否認論(Nueva refutación del tiempo)」です。
『続審問』ホルヘ・ルイス・ ボルヘス著。
≪観念論の主張をいったん認めてしまえば、それを超えることは可能である――おそらく避けられない――とわたしは信じる。バークリーにとって、時間は「均質に流れ、全てのものがそれに与かる・・・観念の連続」であり(『人間の知識に関する諸原理』)ヒュームにとっては「不可分の瞬間の連続」である(『人間性についての論考』)。けれども、連続体である物質と精神を否定し、さらには空間をも否定してしまった以上、もう一つの連続体である時間の存在を主張する権利がはたしてわれわれにあるだろうか。個々の知覚(事実上または憶測上)の他に物質なるものは存在しない。個々の心的状態の他に、精神なるものも存在しない。時間もまた、個々の現在の一瞬の他には存在しないであろう。ここで、最高に単純な一瞬、荘子の夢の瞬間を例にとってみよう(ハーバート・アレン・ジャイルズ『荘子』一八八九年)。約二十四世紀昔、荘子は蝶になった夢を見たが、目醒めて後、自分が人間で蝶の夢を見たのか、本当は蝶でいま人間の夢を見ているにすぎないのか――そのいずれであるか確信を持てなかった。目覚めのことはいま除外して、夢の瞬間、正確には一つの瞬間を考えてみよう。「わたしは蝶になって空中を飛んでいる夢を見たが、荘子のことは何も憶えていなかった」、と古いテクストには記されている。飛んでいるらしいと思った時、荘子が庭園を見たかどうか、また疑いもなく彼の姿である黄色い動く三角形を見たかどうか、われわれにはついにわからないだろう。わかっていることは、この蝶の姿が記憶によって創られた主観的なものだということだ。心身平行論の所説に従えば、蝶の姿は夢想者の神経系における何らかの変化と照応していたであろう。バークリーによれば、あの瞬間、神の心における知覚として以外、荘子の肉体も彼が夢を見た真暗な寝室も存在しなかった。ヒュームはこの出来事をさらに単純化する。彼によれば、あの瞬間、荘子の精神は存在しなかった。存在していたのは夢の色と彼が蝶であったことの確実さだけである。彼は紀元前およそ四世紀に荘子の心であったところの、「様ざまな知覚の束もしくは集合体」の瞬時的な項として存在した。彼は無限の時間数列の、n-1とn+1にはさまれたnとして存在したのだ。
 観念論にとって、現実とは知的過程の謂(いい)である。知覚された蝶に客観的な蝶を付加することは、虚しい重複であるように思われる。知的過程に自我なる観念を付加することも同じように余計なことだ。観念論は夢想や知覚があったことは認めるが、夢想者や夢そのものは認めない。また、客体や主体を云々することは不純な神話への傾斜であると考える。さて、個々の精神状態が自己完結的であり、それをそれが生起した状況や自我と結びつけることが不当で空虚な付けたしであるとしたら、後でそれに時間の一点を付与する権利がわれわれにあるだろうか。荘子は蝶になった夢を見、夢を見ている彼は荘子ではなく蝶であった。空間と自我を廃棄したいま、われわれはこれらの瞬間を目醒めの瞬間や中国封建時代と結びつけることはできないであろう。ということは、荘子が夢を見た日時を、近似的にもせよ確定できないという意味ではない。地上のいかなる出来事であれ、ある事件の日時を決定することはその事件には無縁の外的な事柄であるということなのだ。荘子の夢は中国ではよく知られている。そのほとんど無限とも言うべき読者の一人が、蝶になり、次には荘子になった夢を見たとしよう。全く不可能とは言えないことであるが、この夢が細部にわたって師の夢に完全に生き写しであったとする。この同一性を仮定したら、われわれは次の問いを問わねばならない。お互いに符合する二組の瞬間――これらは全く同じものではないのか?ただの一度でもある項が繰り返されるとしたら、それは世界の歴史を破滅混乱させ、そのような歴史が存在しないことをわれわれに教えるに足るものではないのか?(J.L.ボルヘス著 中村健二訳『新時間否認論(Nueva refutación del tiempo)』)岩波文庫より≫

・・「n+1」うんたらとあるのは、「胡蝶の夢」だけでは到底読みきれない部分で、「胡蝶の夢」を含めた「斉物論」全体から見渡さないと難しいです。

Zhuangzi
『天下莫大於秋豪之末、而大山為小。莫壽乎殤子、而彭祖為夭。天地與我並生、而萬物與我為一。既已為一矣、且得有言乎?既已謂之一矣、且得無言乎?一與言為二、二與一為三。自此以往、巧歷不能得、而況其凡乎。故自無適有、以至於三、而況自有適有乎!無適焉、因是已。』(『荘子』斉物論 第二)
→天下において、秋の獣の毛先の先よりも巨大な存在はなく、大山よりも小さな存在はないとも言える。夭逝した者ほど長生きした者はおらず、八百年を生きた彭祖ほどの早死にをした者もいないと言える。天地は私と並び生じ、万物は私と共に「ひとつのもの」なのだ。この世界のすべてが純然たる「一」であるにもかかわらず、言葉によって「存在する」となぜ言えるのだろう?「一」と「存在する」という言葉によって「二」となり、「二」と「渾然の一」によって「三」となる。これを始まりとして進めていくと、いかに計算の巧みな者でも測りつくせず、世界の総体をうかがい知ることすらできない。「無」から「有」となるのみでもすでに「三」となっているのに、「有」から「有」へとなるならば、際限などあるはすもない。そんなことはやめて、今この時に立ち返るのみだ。

参照:Urusei Yatsura - Movie 2 - Beautiful Dreamer - Part 4/10
http://www.youtube.com/watch?v=78WUEhoxzFQ

「穆王の旅」と「浦島太郎」。
http://plaza.rakuten.co.jp/poetarin/005161/

今日はこの辺で。


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